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<title>エセー</title>
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<description>記憶と記録</description>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_d9e2.html">
<title>マルクス　その可能性の中心</title>
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<description>柄谷行人の「マルクス　その可能性の中心」（１９７８）は高校時代にはじめて読んだ批...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;柄谷行人の「マルクス　その可能性の中心」（１９７８）は高校時代にはじめて読んだ批評でした。マルクスを貨幣の謎に根本的に向き合った思想家として捉えて、そこから価値形態論に注目していきます。商人資本主義の段階では商品の価値は地域差によって生じていたものが、産業資本主義には技術革新によって時間の差によって生じる。空間的にも時間的にも複数の価値体系があり、価値はその差異によって生れるので、商品自体にはないという。左翼思想・マルクス主義・共産主義の思想的な破産した時代に、マルクスに可能性があるとしたら、マルクスの「資本論」を読み直すこと以外にはない。「資本論」は貨幣・商品・価値の現実の姿を見極めようとしたもので、その真の姿はいまだ解き明かされていない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;時間的に複数の世界が貨幣によって繋ぎ止められている。貨幣は複数の世界を移動している。貨幣がなければ、世界は分裂したままである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_1454.html">
<title>１９７９年　イラン革命の衝撃</title>
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<description>１９７３年の第４次中東戦争の結果、アラブ地域が団結して石油の輸出を制限して欧米諸...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７３年の第４次中東戦争の結果、アラブ地域が団結して石油の輸出を制限して欧米諸国と日本に打撃を与えます。オイル・ショックはアラブ諸国からみたら、第一次大戦によるiイスラム帝国の崩壊、植民地化から第二次大戦後の独立を経て、アラブの大儀を掲げた出来事だったのです。潤沢なオイル・マネーがアラブ諸国の近代化を促進した結果、イランでは王政の近代化にたいする不満の受け皿をイスラム教が果たし、１９７９年王政に対する反近代としてのイスラム革命が起こり、ホメイニ師が最高指導者となります。アラブではマルクス主義がもはや革命の希望ではなく、イスラム教がその代わりとなったことを示しています。同年マルクス主義の大元であるソ連がアフガニスタンに侵攻して事態は決定的になります。アメリカはアフガニスタンの反政府組織を支援して、そのなかにはビンラビンがいます。１９８０年イスラム革命の輸出を畏れるイラクと革命の防衛を果たすイランの間で、イラン・イラク戦争が始り、ここでもアメリカはサダム・フセインのイラクを援助します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ソ連はアフガニスタン侵攻で泥沼に陥り、共産主義体制の崩壊を早めました。イランはイラク・イラン戦争で疲弊してイスラム革命の民主的な成果を果たせませんでしたが、代わりにアラブ諸国にイスラム原理主義を広める結果となります。イラクはアメリカの援助で強大なフセイン体制を築きましたが、それが痣となり、湾岸戦争に至ります。アフガニスタンはアメリカの援助を受けたタリバン政権が生まれますが、湾岸戦争の結果、反米とイスラム原理主義が台頭してきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-21T23:06:00+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_55f0.html">
<title>同時代ゲーム</title>
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<description>１９７９年、大江健三郎は「同時代ゲーム」を出版します。難解でおそろしく評判が悪い...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７９年、大江健三郎は「同時代ゲーム」を出版します。難解でおそろしく評判が悪い小説でした。リアリズムから完全に逸脱した奇妙にグロテスクな小説は、兄から妹への手紙で綴られています。兄は日本書記の歴史家で、妹は所在不明です。手紙自体が届く可能性はない、不確かなものです。その手紙の内容は、自分たちの出自である江戸幕府にも明治政府にも従わなかった村＝国家＝小宇宙の歴史を、父親に命じられて語るというものでおそろしく誇大妄想的なのです。兄は村の歴史を書くことを逃れるために、妹との近親相姦を試みる。国家の成立には暴力の独占という法が成立する必要がある。近親相姦の禁止という法をやぶることで、歴史の記述から逃れる。にもかかわらず、小説という形で書いている。それは神話でもあり、歴史でもあり、物語でもあり、手紙でもあるという奇想な書物が生れたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;理想の国家・社会を語れなくなった時代に、国家に抗する共同体をえがこうとしたら、その理想の共同体はどうみてもグロテスクな代物でしかないのでした。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-17T13:32:48+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_bbc9.html">
<title>時をかける少女</title>
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<description>原作の筒井康隆の小説（１９６７）、大林宣彦監督の映画（１９８３）、そして細田守の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;原作の筒井康隆の小説（１９６７）、大林宣彦監督の映画（１９８３）、そして細田守のアニメ（２００６）である。先日テレビ放映していたのをＤＶＤ録画していたのを見ながら、不思議な感覚に捉われました。筒井や大林の時代にはビデオさえなく、映画は一度みるとテレビ放映か名画座でしか鑑賞できないものでした。大林の映画はメルヘンで描かれた、取り戻せない過去へのセンチメンタルに彩られています。アニメ版では過去は気楽に行き来できるまでに格下げされています。主人公は実にくだらない理由で過去に戻ってやりなおすのですが、自分の不幸を防いだことで他人が不幸になる現実に出会います。最初に主人公は電車に轢かれて死んでいたはずでした。偶然得た能力で難を免れますが、そのため友人が逆に事故に巻き込まれそうになる。本物の未来からきたタイムトラベラーによって事故はさけられますが、そのために彼は未来に帰れなくなったしまう。この事故の場面が繰り返しでてくるのですが、事故も偶然起こってしまう出来事で、避けられたのに避けられなかった痛みがあります。事故は誰が起こってもおかしくないのに、その事故の現場は、事故前も事故後もなにごともないかのように存在している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;筒井の小説が角川文庫に収録されたのは１９７６年。筒井が不条理小説ではなく、ウエルメイドな作品で、当時、ジュニア向きのＳＦ小説がたくさんでていていました。青春小説をＳＦの設定で描くのは、青春が仮想現実として受け入れざるえない環境だったからです。筒井の小説は高校生の日常生活のなかにタイムトラベルをもちこんで、大きな歴史を描いていません。未来からきた少年は、この時代は未来にくらべて生活しやすくすばらしい、といいます。未来は希望ではなく、恋愛は得たとおもったら失われるほかない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;40年後の未来に、いま生きている僕が、新作のアニメをＤＶＤで見ている。ここでは過去が取替え可能なもので、いま生きているのは偶然の産物にすぎないという感覚が広がっています。未来の少年を助けるために、作品の最初の日にもどることで、まだ来ていない未来が思い出になり、新しくはじまった未来は偶然にゆだねられるのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-15T08:37:49+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_8b0c.html">
<title>犯罪者永山則夫からの報告</title>
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<description>同じころに地方から東京にでてきた永山則夫と中上健次は新宿のジャズ喫茶に出入りして...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;同じころに地方から東京にでてきた永山則夫と中上健次は新宿のジャズ喫茶に出入りしており、中上は永山則夫の連続殺人事件（１９６８）について長文の批評を書いている。当時強い印象を受けました。事件を自分とひきつけてみる方法は大胆で、高校生の僕にはなじみのない思考でした。文学の力はすごいな、作家というのはなんと強靭でかつ繊細な感受性を持つものなのかと思いました。内部の人間に対して永山を外部の人間であるといっています。また、連続という運動にひかれています。永山という犯行そのもの、連続殺人そのもののありようを捉えようとしています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;当時、永山の「無知の涙」（１９７１）が文庫化されていましたのでさっそく読みました。殺人者の手記が出版されていること自体も驚きでしたが、事件時に読み書きが不自由な１９歳の少年が、収監後に本を読むことで独学で文字を習得して、貧困と無知による犯罪だったとしています。中上はこのエッセイを批判しています。文字の獲得によって、文学という内部におさまることががまんならいようです。１９６８年の全共闘運動が、大学生という地方から都市にやってきた青年たちによる祝祭であるとするなら、その裏側に中学・高校を卒業して集団就職してきた青年の鬱屈した精神が犯罪にいたることがあった。中上は「灰色のコカ・コーラ」という小説を、その新宿のジャズ喫茶を舞台に書いています。中上は一方で偽学生として学生運動にも関わっている。地方から都市に大量の人間が移動した１９６０年代は、鬱屈した精神を発散する場所を求めていました。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-13T17:41:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_0a3f.html">
<title>紀州　木の国・根の国物語</title>
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<description>１９７８年発表のルポルタージュ「紀州」は、中上健次が紀伊半島の各地を回りながら、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７８年発表のルポルタージュ「紀州」は、中上健次が紀伊半島の各地を回りながら、差別・被差別の問題をあぶりだしていきます。この時点では中上はまだ自分が被差別部落民であるとは公表していませんでした。中上は被差別者の立場にたって差別を告発することをしていません。１９７０年代には紀伊半島にも都市化・近代化の波が打ち寄せてきます。道路整備や家屋の建替えがすすみ、健全な市民生活・市民社会が成立するはずだと疑いなく思われていました。しかし、事実はうわべの現象ではわかりません。中上は紀伊半島の土地・土地を車で回りながら、いきつもどりつの思考の蛇行をくりかえします。小説家による国家論・文化論である三島由紀夫の「文化防衛論」（１９６９）や谷崎潤一郎の「陰影礼賛」（１９３３）のような作家に統御された論理ではなく、地を這うようにいきる個々人と土地の事実につきあたっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;あれから３０年後に、紀伊半島は高速道路は大阪からみなべまで伸びている。今年中には田辺までつながりという。中辺路ルートの国道３１１号は本宮までの道路は改良されている。国道４２号の日置からすさみ間はトンネルが通った。市町村の合併で龍神から本宮まで田辺市に合併された。新宮にも田辺にも郊外に大型スーパーが進出して、中心街は空洞化している。熊野古道が世界遺産に登録されて、観光客は増加しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７０年代に進行していた土地開発という危機が、路地の世界の発見につながり、その路地はすでに消滅の過程に入っていた。だから、紀伊半島を移動しながら、神武東征の神話から戦国時代の雑貨一族の敗北、大逆事件の敗北と、歴史を呼び覚まし、差別が物語の構造そのもであるという事実に突き当たることになる。差別は国家による暴力装置であり、それを支持するのは国民自身でもある。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-11T10:45:02+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_9159.html">
<title>路地の世界</title>
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<description>和歌山県新宮市の作家が芥川賞を受賞したことは知っていたけれど、あまり関心がなかっ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;和歌山県新宮市の作家が芥川賞を受賞したことは知っていたけれど、あまり関心がなかったのが現代文学を何冊か読んだ勢いで「岬」と「枯木灘」を読んで衝撃を受けます。１９７６年芥川賞受賞作の「岬」は普通に面白い小説でしたが、１９７７年に出版された続編の「枯木灘」を読んで小説の世界というのはとてつもなくすごいものなのかと思いました。それからは過去の中上健次の本をすべて読んで、文芸雑誌で名前を見つけると読むようになります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「枯木灘」の単行本には和歌山県の地図と主人公の秋幸を中心とした複雑な血縁関係が記された冊子が入っています。地図も家計図も、全体を俯瞰する視点からは便利なものですが、作品自体には全体を俯瞰する普遍的な視点はありません。普遍的な視点、神の視点、超越的な視点がないということは、個人はばらばらに存在しているということです。ばらばらに存在している個人は路地の世界でのみつながっています。路地の世界では個人の情報は生れてから死ぬまで筒抜けで、過去に起こった出来事はみんなに知られているのです。ここには友情や恋愛はありません。これは日本の農村共同体と同じ世界ですが、路地の世界は閉じた社会ではなく、情報や意味の吹き溜まりであり、うわさは嘘を含み、絶えず書き換えが行われています。複数の主観性が肯定されているのが路地の世界なのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この路地を焼き払おうとするのが、秋幸の父親です。この時代は田中角栄の日本列島改造によって土地の転売が進みます。田中角栄はその意味では「蝿の王」です。ロッキード事件で逮捕されたのが１９７６年ですが、日本列島改造は行き続けて１９８０年代後半のバブル帝国にまで至ります。秋幸もまた父親を殺そうとしますが、果たせませんでした。秋幸は土方をしています。つまり路地を殺す側にいるのは主人公自身なのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-09T18:36:28+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_c40f.html">
<title>限りなく透明に近いブルー</title>
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<description>１９７８年頃、１９７６年芥川賞受賞の村上龍の「限りなく透明に近いブルー」がちょう...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７８年頃、１９７６年芥川賞受賞の村上龍の「限りなく透明に近いブルー」がちょうど文庫化されたので早速買って読みました。これは性描写が過激だという評判で話題になっていたものです。ロック・ドラッグ・セックスの描写が続くのですが、心理描写がなくてまったく隠微なところがない、不思議な読書体験でした。アメリカ軍兵士とヒッピー化した日本女性たちと主人公のリューとの乱交パーティーがスポーツの運動のように描写されます。ベトナム戦争にいくアメリカの若者と、基地を提供する日本の若者が、ユース・カルチャーを通して交じり合っていく。ここでは、日本とアメリカの政治関係が、メタファーとして描くのではなく、基地という日本に突き刺さったアメリカを拒否しながら、一方でアメリカン・カルチャーは受け入れるというありかたは、心理的に処理できる状況ではなく、マゾヒスティックに受け止めざるをえないのである。この小説は日本の現実がなにであるかを示している点が、心理的な抵抗を生みました。１９６９年の佐世保への米軍艦隊の寄港反対運動を高校生で体験した村上は、反対運動そのものを自己反省もなく、肯定しています。それは学生運動を否定的にしか回想できない全共闘世代とは異質なものです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７０年代後半に地方都市の高校生である僕は、村上龍によって洋楽・ロックを聴くようになります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-08T12:19:22+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_6556.html">
<title>芥川賞作品と出会う</title>
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<description>１９７８年に高校入学して、初めて芥川賞受賞作品を読みました。同年受賞の高橋三千綱...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７８年に高校入学して、初めて芥川賞受賞作品を読みました。同年受賞の高橋三千綱の「九月の空」と前年受賞の三田誠広の「僕って何」です。単行本を買ったのは初めてです。「九月の空」は剣道に打ち込む高校生を主人公にした青春小説で、「僕って何」は全共闘運動に巻き込まれた大学生を主人公にした青春小説です。中学の時は推理小説しか読んでなかったし、純文学は敬遠していたのですが、学生を主人公にした２作品とも共感しやすくて惹かれました。江戸川乱歩賞の小峰元の「アルキメデスは手を汚さない」（１９７３）や栗本薫の「ぼくらの時代」（１９７８）のような学園青春ものを読んでいたので、同じような感覚で読めました。ただの印象ですが、１９７０年代に入ってから学生を主人公にした青春小説が増えたような気がします。ぼくが好んで読んだせいかもしれませんが。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;特に「僕って何」は１９６８年の学生運動を背景に描いていて興味をひきましたが、主人公は学生運動に関わっているにもかかわらず、運動自体を否定的に描いているわけです。１９６８年の運動を肯定的に捉える視点は２０００年に入るまで日本ではなかったように思います。１９７０年代は全共闘世代は就職転向して体制に順応していましたので、運動自体を肯定的に描くことはできませんでした。実際、１９７０年代の学生運動は内ゲバを繰り返していましたので、とても肯定できるものではありません。だから「僕って何」は１９６８年を描いているのではなく、１９７０年代からシニカルに振り返って書かれたように読めます。１９６８年の運動を世界的なシステム変動として捉えるウォーラスティンのような視点がないので、「僕とはいったい何者なのだろう」という自分探しの物語になっています。「九月の空」も自己鍛錬する若者を描いています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それに比べると栗本薫の「ぼくらの時代」のほうが、アイドル歌手に夢中になる女性とその自殺の手伝いをする主人公の大学生を描いていて、１９７０年代の時代の屈折を掘り起こしているようにおもいます。芥川賞のほうが通俗的な青春小説で、江戸川乱歩賞のほうが時代と社会に触れているということだったと思います。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-06T23:36:52+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_0bf5.html">
<title>岸信介と田中角栄の亡霊</title>
<link>http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_0bf5.html</link>
<description>参議院選挙中に新潟を震度６の地震が起こり、柏崎原発が被災して火災が発生、消火活動...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;参議院選挙中に新潟を震度６の地震が起こり、柏崎原発が被災して火災が発生、消火活動の不手際や活断層の予測の甘さなどが指摘されて、操業開始の目処はつきそうにないらしい。また自動車部品工場の理研が被災し、日産・トヨタなどへの部品供給に影響がでているとのことです。参議院選挙で小沢一郎が地方重視の姿勢を打ち出し、選挙応援演説を人口のすくない農村部で繰り返す姿がニュースになり、選挙後、中曽根康弘元首相は毛沢東の「農村が地方を包囲する」戦術を思わせると発言したようです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;これらのニュースから田中角栄の亡霊が徘徊しているかのように感じます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;田中角栄が頭角をあらわしたのは、理研の大河内正敏に気に入られ、満州の工場建設で奔走したことから、巨額の富を得たといわれています。田中角栄は１９７０年代に高速道路の整備とエレルギーの安定供給のためにダム建設と原子力発電所の誘致を行います。柏崎が原発銀座とよばれる影に田中角栄の存在があります。道路公団にメスを入れたのが小泉純一郎前首相で、脱ダム宣言をしたのが前長野県知事の田中康夫で今回の選挙で新党日本の党首としてひとり当選しました。地震によって原発の一部が稼動できなくなり、安全性と公開性が追求されています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９６０年の日米安保の締結と引き換えに、岸信介のアメリカからの独立性と軍事路線は敗北します。かわって田中角栄の軽武装での経済性重視の路線が成功します。岸と田中は満州の国家運営と戦時体制によってつながっていたわけです。安倍晋三首相は岸路線に引き戻すべく登場しましたが、小沢一郎の田中路線（地方重視）によって一敗地を喫したかたちになります。岸路線対田中路線の対決がいまはじまったのかもしれませんが、その根底には戦前の総力体制がそのまま生き残るかどうかの戦いにあります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ニュース</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-04T21:54:41+09:00</dc:date>
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<title>安倍晋三首相の決断</title>
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<description>先の参議院選挙で大敗しましたが、続投を表明しています。マックス・ウェーバーは「職...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;先の参議院選挙で大敗しましたが、続投を表明しています。マックス・ウェーバーは「職業としての政治」で、政治家は国家が暴力の行使であることを認識して、そうした一切の結果を引き受けなければならないといっています。「美しい国」を標榜する安倍首相には国家が暴力であるという認識はありえないらしい。国家は国民を守るために存在するのであって、暴力であることなどありえない。そこには、どんな立法行為も暴力であるという畏れ慄きがない。国民のためにしているのだから。そういう考えは安倍首相だけのものではない。日本国民自身のものであります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;安倍の先祖は、源平合戦で平家側で戦い、落人となって山口県に隠れ住んだといいます。山口県は長州藩で明治維新の中心です。維新前には下関事件でイギリス艦隊に大砲で攻撃して攘夷を決行しますが、欧米の軍事力の強さに国家の近代化が急務と悟り、尊王派に転向します。長州出身の伊藤博文、山県有朋は近代国家の基礎をつくった首相であり、戦後の国家をデザインしたのは山口県から首相になった岸信介と佐藤栄作の兄弟です。１９４０年代の満州を国家の総力体制にデザインした官僚の岸信介は安倍晋三の母方の祖父で、父方の祖父には国家総動員法に反対した安倍寛が存在します。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;安倍首相がこだわる岸信介が満州を実験場に戦時経済体制を作り、それは戦後そのまま生き残り、戦後の高度経済成長を軌道に乗せました。戦前の軍事国家は戦後の経済国家に姿を変えましたが、国民のメンタリティは同じです。政治体制がかわろうが、憲法がかわろうが、国民が主権をもとうが、国民の意思は変わりません。１９６０年の安保闘争は日米安全保障条約が是か非かが問われたのではなく、岸の政治手法が「民主か独裁か」が問われました。同じように安倍首相の掲げる政策が是か非かが問われたのではありませんでした。真の「戦後レジームからの脱却」は戦前から続く国家の総力体制からの脱却以外にありません。父の安倍晋太郎が尊敬していた安倍寛のほうを見習うべきなのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-03T23:55:27+09:00</dc:date>
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<title>阿久悠の時代</title>
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<description>昨日、作詞家阿久悠氏が亡くなられました。先日NHKの番組で１９７０年代の歌謡曲を...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;昨日、作詞家阿久悠氏が亡くなられました。先日NHKの番組で１９７０年代の歌謡曲を批評する番組にゲスト出演したのを見ましたが、好々爺した姿に懐かしく、僕の小学生から高校生までの歌謡曲黄金時代が阿久悠ぬきにはありえなかったのを確認しました。その番組で阿久は「歌謡曲は映画的、Jポップはブログ的だ」と言ってました。歌謡曲は自分の感情ではなく世の中や他人の為にあったのに、Jポップは自分のことばかり歌っているということです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７０年代の日本は田中角栄が推し進める「列島改造」で、国土が投機の対象になると同時に地方の土地の神々の世界が破壊されていく端緒になりました。国土の神々が殺されたように、人間の身体の魂が殺害されていきます。１９７２年大衆消費社会がもう「どうにもとまらない」（山本リンダ）時代に突入します。１９７８年「モンスター」のピンク・レディーは歌謡曲を幼稚化し、子供の世界にエロスをもちこみ、１９７７年「勝手にしやがれ」の沢田研二は性の多様性を開発します。１９７５年「北の宿」で都はるみは「あなた変りはないですか」と変っていく日本の国土を歌い、１９８０年「雨の慕情」で八代亜紀は「あめ、あめふれふれ」と怒る大地に祈る巫女になる、七転八倒の１９７０年代をまるごと捕まえようとしたのが阿久悠だったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;あらゆる価値紊乱を促し、女も男も子供も大人も、土地と身体性を失っていく時代だったのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>音楽</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-02T22:31:20+09:00</dc:date>
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<title>宮崎駿の１９７０年代</title>
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<description>１９６８年の「太陽の王子　ホルスの大冒険」を１９７５年頃にテレビ放映で見まして、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９６８年の「太陽の王子　ホルスの大冒険」を１９７５年頃にテレビ放映で見まして、とても興奮したのを覚えています。宮崎は場面設定で関わっているようです。監督はぼくが嫌いな「火垂るの墓」や「おもひでぽろぽろ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」を撮った高畑勲。嫌いな理由は説教くさいからです。でも「ホルス」はすばらしいと思います。北欧を舞台に村落共同体が魔女の侵略を受けたときに村人はみずから立ち上がり反撃に成功します。黒澤明の「七人の侍」は農民が傭兵を金をだして雇うのにくらべても、テーマが民衆の自立と連帯にあることは明確です。１９６８年という学生の叛乱の季節に、あくまで職人や生活者の戦いが前面にでています。「カムイ伝」と双璧です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「ルパン三世」（１９７１）「アルプスの少女ハイジ」（１９７４）「母をたずねて三千里」（１９７６）にも相当かかわっているようです。みんな好きな作品で再放送のたびに見ていました。１９７０年代のシニカルでペシミスティックな状況の中で、どこにも回収されない肯定性にあふれています。ルパンをニヒルに描いてもおかしくない設定にもかかわらず、陽気で愉快な人物に描き、孤児のハイジを陰気に描いてもおかしくないのに活発な少女に描き、イタリアからアルゼンチンに母親を探しにいく少年を負けん気の強い少年に描いています。３作品とも原作はもっと否定的な主人公だと思います。そうしたほうが文学的に描きやすいし、作品に重さがでるはずですが、３作品ともに明確な主題があります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７８年の「未来少年コナン」と１９７９年の「ルパン三世　カリオストロの城」で宮崎駿は強烈な作家として登場します。高校１年・２年の時です。両方とも、現実には不可能な身体能力でジャンプしたり、落下したりするアニメ表現が随所にでてきます。そのことで後に論争にもなったようですが、この時はじめてアニメーションという身体移動を純粋に追及した作品が生れたことのほうが重要です。アニメはこのとき現実の重力からはじめて解き放たれたのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-08-01T23:49:37+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_5626.html">
<title>参議院選自民党予想外な大敗</title>
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<description>事前の予想では、自民党は議席を減らしても、それほどひどい負けはないかと思われてい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;事前の予想では、自民党は議席を減らしても、それほどひどい負けはないかと思われていたが、昨日の選挙の結果は予想以上に負けたように思えた。考えてみると、小泉首相の昨年の郵政解散選挙の時も、選挙開始時にはむしろ民主党のほうが有利にみえたのに、結果は自民党の圧勝だった。こうした雪崩現象は、選挙がかかえる根本的な問題を示しているように思う。代表するもの（代議士）と代表されるもの（選挙民）の不安定性である。もともと、自民党は地方や中小企業、土建業などを代表する政党であるかのようにふるまっていたが、小泉内閣の登場によって、市場原理主義を重視する政策に舵をきり、都市型の政党に近づきました。一方、民主党は公正なルールや原理を、古い利権構造にかえるべきだとする政策を掲げていましたが、小泉の市場主義導入によって、改革に抵抗する勢力だと見えてしまうようになりました。今回、民主党の小沢党首は、自民党の変質を逆手にとって、地方重視、弱者重視をアピールして票を集めたように思えます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;選挙する国民は、もうかつてのように、目に見える存在からそのときそのときの情勢で動きを変える無秩序な存在になりつつあります。選挙結果に驚くのは選挙した国民自らになりつつある。国際競争力のある大企業を維持しながら、同時に、不公正な利権を手放さない企業や官公庁を公正なルールの競争に改造し、独立自営業者の育成を促し、地方の弱小企業や農民を保護する。そういう互いに矛盾する競争と保護を明確にするプランがもとめられているが、政策が一方にかたよりがちな政党には、大量に票が移動するだけに終わってしまう。しかし、代表するものと代表されるものの不一致にこそ希望があるのかもしれません。すべてを代表することなど不可能ですし、むしろ危険です。小泉がすべてを代表している幻想をつくり、多くの共感を得ましたが、むしろ、できることとできないことを明確にするほうが、未来に希望がもてるからです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>ニュース</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-30T11:35:24+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_c83a.html">
<title>松本零士の１９７０年代</title>
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<description>コミックは１９７７年から始まった「銀河鉄道９９９」と１９７８年の「大純情君」、テ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;コミックは１９７７年から始まった「銀河鉄道９９９」と１９７８年の「大純情君」、テレビは１９７８年放映の「宇宙海賊キャプテンハーロック」、映画は１９７９年公開の「銀河鉄道９９９」と、この時期の松本零士は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。僕が中学３年から高校２年までの時期にあたります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７０年代の前半には「男おいどん」のような４畳半の古アパートでアルバイトでしのぐ青年（元祖フリーターか？）を独特なペーソスで描いていたものが、「宇宙戦艦ヤマト」のヒット以後、壮大な宇宙空間を舞台に描くようになる。「大純情君」は４畳半の主人公の部屋が宇宙空間がつながっているという設定で、現在のセカイ系に似ているように思う。孤独な青年の妄想が世界の環境とつながっている。「銀河鉄道９９９」も「キャプテンハーロック」もどこか孤独な青年の誇大妄想的な雰囲気が漂っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「キャプテンハーロック」は未来の地球人は平和になれて怠惰な生活を送っている。宇宙からの侵略がはじまろうとしているのに地球防衛軍は動こうとしない。海賊ハーロックは地球人のためではなく、自分自身の自由を守る為に戦う決意をした戦友たちとアルカディア号で戦うのである。１９７０年代には戦争の大儀も革命の理想も信じられなくなっていた。戦う理由は個々の自由を守る為以外には見出せなくなっていた。それぞれに価値観も生き方も異なっていても、個人の自由を守るためにだけ連帯する。そして、戦いが終われば、戦闘集団を解散して、個々人の日常に帰っていくのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「銀河鉄道９９９」は人間を機械化して永遠の生命を得ようとする裕福な人々と機械を手に入れない貧民との未来社会を描いている。永遠の生命という安眠をむさぼる人間にたいする批判がこめられている。松本にとって戦う気概をなくした人間こそが、真の敵なのである。１９７０年代に達成した日本の福祉社会が寓意されていたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-28T16:35:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_d800.html">
<title>少女マンガの１９７０年代</title>
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<description>萩尾望都の「トーマの心臓」（１９７４）、山岸涼子の「天人唐草」（１９８０）、大島...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;萩尾望都の「トーマの心臓」（１９７４）、山岸涼子の「天人唐草」（１９８０）、大島弓子の「Ｆ式欄丸」（１９７６）、竹宮恵子の「風と木の詩」（１９７６～）、木原敏江の「摩利と新吾」（１９７７～）、池田理代子の「オルフェウスの窓」（１９７５～）。少女マンガといっても、ぼくがひかれたのは上記の作家ものだけなのですが、中学・高校生のころに夢中になった記憶があります。なぜでしょか？&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;絶対的な少年性の表現がこの時代の少女マンガの一部にはありました。当時、稲垣足穂の「少年愛の美学」が文庫本で読めましたが、Ｐ感覚とＶ感覚から逸脱したＡ感覚の少年性とでもいうべき未来派の表現が、転移したかのようです。日本の旧制高校を舞台にした「摩利と新吾」は大正教養主義のバンカラと自由主義の精神が、「オルフェウスの窓」は第一次世界大戦からロシア革命に至る時代に革命の精神が、男女の恋愛ドラマではなく、少年たちのナルシズムの世界として描かれています。「風と木の詩」では１９世紀末のフランスの寄宿舎を舞台に同姓愛が描かれているが、少年たちのマゾヒズムの世はがジャン・コクトーの第一次大戦後を描いた「恐るべき子供たち」を思わせます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「トーマの心臓」はヘルマン・ヘッセの「ダミアン」を思わせるグノーシス主義の精神が転移したかのようです。ヘッセは第一次世界大戦直後にこの小説を発表して、ヨーロッパ世界の崩壊の感覚が色濃く反映していますが、この小説はアメリカで１９６０年代後半のアメリカ反戦運動の高揚のなかで、若者に強く支持されたようです。グノーシス主義はキリスト教の異端思想で、この世界を悪の世界としてみるものです。「トーマの心臓」では知性のある少年が上級生が誘惑する悪魔主義にはまりながらも、そこから抜け出すまでを、絶対的な、精神的な世界として描いています。「天人唐草」は日常にひそむ狂気を神話世界として描いています。精神の崩壊の恐怖が普通の日常の対人関係のなかにひそんでいることを明らかにします。神話のユング的な解釈が取り込まれています。「Ｆ式蘭丸」のＦはフロイトのことですが、夢を抑圧された願望とみるフロイトと決別したユングは、第一次大戦後に、夢がなぜ起こるのかではなく、何のために起こるのかと問う。無意識を人間の創造力と結びつけて、積極的に評価するのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この時期の少女マンガはなぜか第一次大戦後にヨーロッパ世界で起こったことが、反復されているように思う。近代的な世界観と個人の崩壊が、コクトーやヘッセの文学を生み、同性愛や少年愛に引き寄せられ、グノーシス主義やユング思想がもとめられたように、１９７０年代の少女マンガの世界で同じようなことが起こったのである。&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-26T23:21:56+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_5608.html">
<title>楳図かずおの１９７０年代</title>
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<description>１９７２年から１９７４年の「漂流教室」は小学校の校舎が先生と子供たちとともに荒れ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７２年から１９７４年の「漂流教室」は小学校の校舎が先生と子供たちとともに荒れ果てた未来に漂流するマンガですが、「ドラえもん」が現実と別の世界をどこでもドアがつないで行き来が可能な世界であるのに比べて、「漂流教室」の未来は現在とは時間の壁があって行き来はできない。現在の物が未来では古びた物として出現するのである。不可逆的な未来をえがく「漂流教室」は、現在も未来も人間が生きる条件に変わりがないことを教える。「ドラえもん」が日常の現実に帰ってくることで、安心して見れる教育的なマンガであるとすると、「漂流教室」は残酷な不可逆的な未来を描くことで、そこにつながる現在の日常自体が恐怖であることを告げている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７６年から１９８１年の「まことちゃん」は、幼稚園児の動物的な行動をアナーキーに描いている。人間は動物であるという真理は、見たくない現実である。食事をする排便をするセックスをすることが動物である人間が日々していることである。「まことちゃん」は子供であること、動物であることを肯定するマンガである。子供の世界は、暴力と破壊が占拠する。無秩序で無感覚で無方向で無意味に崩壊している。そうした世界への絶望が逆説的に子供を自由にしているのである。誰もが子供のときはそうだったが、大人になるこで忘れていく。子供であることと大人であることはまったく非対称の世界である。子供であることは未来の可能性であると「まことちゃん」は示しています。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-24T23:30:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_04d1.html">
<title>赤川次郎の時代</title>
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<description>１９７６年赤川次郎は「幽霊列車」でデビューしましたが、ゴシック・ロマンス風に味付...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７６年赤川次郎は「幽霊列車」でデビューしましたが、ゴシック・ロマンス風に味付けされた上質のミステリーだった記憶がありますが、１９７８年に始まる「三毛猫ホームズ」シリーズによって、赤川次郎は時代の寵児になっていきます。シリーズ第一作「三毛猫ホームズの推理」は、内容から見たら、恐ろしくシリアスな作品です。女子大を舞台に女子大生が変質者に殺される事件が続き、やがて女子大のなかに売春グループが組織されていたことがわかる。それとは別に大学内の権力争いと汚職にからんで学部長が殺される事件が起こる。主人公の刑事の捜査の結果、捜査を助けてくれた明るい女子大生こそが、売春グループのボスであり、犯人は刑事が尊敬して慕う上司の警視であることがわかる・・・。同じ内容で深刻な社会派ミステリーに仕上げることもできるところを、恐ろしく能天気な語り口の形式で、ドタバタ喜劇調でラブ・コメディーであり、ご都合主義な推理展開になっているのです。松本清張をよしとする読者には受け付けないであろう展開が、中学・高校生を中心に爆発的に受け入れられていきました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;なぜ、でしょうか。デビュー作「幽霊列車」では、現実世界と空想世界には区別があって、現実世界と空想世界を行き来することで、ゴシック・ロランスが成立していたものが、「三毛猫ホームズ」では現実世界と空想世界は同じ地平にあって、空想したことが、そのまま現実であるような世界が成立しているのです。舞台となっている警察や学校は、本来空想的な場所ではない日常的な場所・散文的な場所にもかかわらず、メルヘンチックな場所として描かれます。女性恐怖症で、血が嫌いで、刑事を辞めたいと考えている主人公と理知的な妹の二人くらしという空想的な設定は、まんが・アニメになじんだ世代にはもっとも受け入れやすい舞台です。赤川次郎が画期的なのは、まんが・アニメと同じような視線を推理小説というリアリズムに持ち込んだところにあります。のちに「おたく」と呼ばれる世代は、赤川作品を受け入れた僕たちの世代から始まるといってよいでしょう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-23T12:03:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_94a8.html">
<title>１９７０年代の家族</title>
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<description>１９７４年小坂明子の「あなた」がヒット。「もしもわたしが家を建てたなら」と平凡だ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７４年小坂明子の「あなた」がヒット。「もしもわたしが家を建てたなら」と平凡だけど愛し合う幸せな家族の歌が小学６年生の耳にもここちよく響いたものです。というわけで、１９７０年代は西洋風の一戸建てを郊外にもつニューファミリーが急増します。家族の未来は明るくみえたものですが、この世代の子供たちが１９８０年代に校内暴力の主役となってしまったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;同年、向田邦子脚本、久世光彦制作のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」で毎回癇癪を起こす父親（小林亜星）とジュリー（沢田研二）ファンの祖母（樹木季林）と父親に反抗する息子（西城秀樹）が引き起こす騒動は、最後のがんこ親父というよりも家族がお互いわけがわからない存在になりつつあったことを喜劇化することで、かろうじて家族の絆を確認していたのかも。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７６年から萩本欽一の「欽ちゃんのどこまでやるの」でホームドラマ形式のバラエティが始まる。互いに相手のことを気遣う家族、なんでも話せる家族、笑いにつつまれた家族が仮構される。欽ちゃんファミリーは萩本欽一というたぐいまれなる気配りな父親抜きにはありえないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７７年放映の山田太一脚本の「岸辺のアルバム」は家族の解体を初めてドラマ化した作品として有名です。父親（杉浦直樹）は会社人間で家族を省みず、母親（八千草薫）はさびしさから不倫に走り、娘（中田喜子）は男にいいようにされて捨てられるが、お互い何事もないかのように過ごしているのに嫌気がさした息子（国広富之）が爆発する。もはや家族がバラバラになってどうしようもなくなった時、大雨で多摩川が増水して家屋が流されてしまう。呆然とする家族が家屋の跡地にいくと、一冊の家族アルバムだけが残され、楽しかったころの笑顔の家族写真を見つけ、もう一度家族をやり直す気持ちになる。このころから、家庭内暴力や不倫や過労死にいたる仕事中毒や受験競争の行過ぎが社会問題化します。さまざまな矛盾が家族のなかで噴出し始めたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７８年ジョージ秋山原作、倉本聰脚本の「浮浪雲」は幕末を舞台に、勉学にいそしむ一人息子と奥さん（桃井かおり）に商売をまかせてふらふら遊び父親（渡哲也）のとぼけた関係をユーモアに描く。渡哲也はすごうでの剣の達人で、いざという時には弱者を助ける正義感の持ち主として描かれている。幕末の時代にこれからは学問が国を動かす力になるという理想をもった息子は、父親を表面上は時代おくれとくさすが、内心ではその倫理感と行動力を尊敬している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７９年、円地文子の小説「食卓のない家」は１９７２年におこった連合赤軍事件の犯人の父親を主人公とした小説です。息子が犯した犯罪は息子の責任であるので謝罪はしないことを貫くがゆえに、妻が病気になり、娘の結婚が中止になる。実際には親が謝罪しても、親が職を失ったり、自殺したり、一家離散になる場合が多い。この小説は、逆に子供は子供で親とは関係がないという態度を貫く父親を描いていますが、現実には存在しません。円地文子は、日本社会ではありえない父親を描くことで、日本社会のありようを告発し、そういう親が出現することに希望を託したのです。現実には、家族に責任をとらせる風潮は強まるばかりです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９８０年「イエスの方舟事件」はそもそもメディアが作り出したものですが、それぞれの家庭の事情で家族を離れた若い娘たちが、ひとりの教祖（おっちゃんと呼ばれていた）を慕って、擬似家族のような生活をしていた。解体する家族から孤立した子供たちが求める先に宗教があらわれます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;同年、「金属バット両親殺人事件」発生。両親を予備校生が金属バットで殺害する事件が発生。１９８３年写真家藤原新也は写真集「東京漂流」で殺人現場の郊外の家屋と死体が道端にころがるインドの風景を対比して写真に収める。このころから、本当の生の実感を求めてインドに行く若者が増えていきます。海外に行けない者はオウム真理教のような修行系の宗教にひかれはじめたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-22T14:24:08+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_23f5.html">
<title>虚無への供物</title>
<link>http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_23f5.html</link>
<description>１９６４年作中井英夫の「虚無への供物」は、１９７４年文庫化されています。「ドグラ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９６４年作中井英夫の「虚無への供物」は、１９７４年文庫化されています。「ドグラ・マグラ」と前後して読んで興奮しました。この小説はラストで、この探偵小説を娯楽として喜んでいる読者に対する告発がされていて、実際、この小説は探偵小説批判として書かれています。探偵小説を読む読者諸君（大衆）こそ、現実の犯罪を作り出しているのではないか、という問いかけがなされます。しかし、いうまでもなく、読者は反省しません。虚無とはそういう読者（大衆）の中身のなさ、犯罪を楽しむ空洞を指しています。この作品自体がそういう読者（大衆）への供物になっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この小説が文庫化されたころからむしろ犯罪をエンターテイメントとして推理する態度が増えていきます。患者を診察もしないでいいかげんな推理を披露する精神家医や断片的な情報で犯人像を推理する犯罪の専門家たちがこの小説は倫理的に批判しています。事故死であるにもかかわらず、４人の素人探偵が推理を競い、４通りの犯人を見つけてしまう。そんな小説のなかの出来事が、現実に日々行われています。我々は犯罪をエンターテイメントとして待ち望んでいる怪物なのである。中井英夫がこの小説以外に探偵小説を書いていないことにストイックな倫理性を感じることができます。我々自身が自分のなかの虚無に気づく必要があるのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-21T00:16:59+09:00</dc:date>
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<title>ドグラ・マグラ</title>
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<description>１９３５年作の夢野久作「ドグラ・マグラ」を読んだのはたぶん高校受験が終わった１９...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９３５年作の夢野久作「ドグラ・マグラ」を読んだのはたぶん高校受験が終わった１９７８年の春だったと思う。この小説は１９６０年代末の全共闘運動の時に、反近代・土着のブームの中で再評価されたものが、１９７０年代中頃に文庫化されて、中学生の僕にも気楽に買えるようになったのでしょう。一読後、スケールの大きさ、実験精神に驚嘆してしまいました。１９３０年代という時代は、マルクス主義者は逮捕・転向を余儀なくされ、満州事変でアジア主義が現実のものとなり、軍部が独走する帝国主義がきわまり、近代主義・自由主義者は息をひそめるというような時代です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「ドグラ・マグラ」の世界は一言でいうと独我論的な世界だと思います。精神病院を舞台にして記憶喪失になった＜わたし＞が、医師と患者の非対称的な関係のなかで、自分が何者なのか、なにが真実でなにが虚偽なのかわからない世界に閉じ込められている。あやしげな学術論文やパンフレット、インタビュー記事、遺言書などによって現実に起こったことのの手がかりになっているが、その資料自体が偽造されたものでないとの保証はない。この世界では絶対的な真理はそのまま絶対的な虚偽に転化するメビウスの輪で構成されているので、＜わたし＞は＜現実＞を喪失していくほかないのです。これは１９３０年代の日本の現実の状況そのままではないでしょうか。この時期を代表する哲学者の西田幾多郎は絶対無を基底にした絶対矛盾的自己同一性の世界を打ちたてましたが、ばらばらの個人がたがいに矛盾を維持しながら、全体を包摂する場所の論理はドグラ・マグラの世界と似通っています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;同時期にアインシュタインの相対性理論は日本でもブームになりましたが、それは我々がよく知っていると思っている現実が、本当の現実ではないという衝撃があったからでしょう。実感では天動説なのに、現実は地動説であるということを知ったときの驚きは、我々の認識では、現実そのものを捉えられない。１８世紀のコペルニクス的転回が改めて、１９３０年代に問われたのです。そこから、「世界はすべて私の幻想ではないか」という独我論に陥るのである。１９７０年代の日本は１９３０年代の日本にくらべて、帝国主義もアジアア主義もなく、戦争も革命もない、密室化した近代主義だけが広がる時代に、「ドグラ・マグラ」は不可知論的なニヒリズムをもたらしたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-20T14:43:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_f203.html">
<title>本宮ひろ志の１９７０年代</title>
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<description>１９６８年から１９７３年まで連載された「男一匹ガキ大将」は全共闘運動の高揚から終...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９６８年から１９７３年まで連載された「男一匹ガキ大将」は全共闘運動の高揚から終息までの時期にあたります。本当は主人公の万吉が全国の不良少年の親分になった時点で終了したかったようですが、その後の苦しい展開のなかに１９７０年代という時代の閉塞があります。万吉は大物の経営者に気に入られて巨大企業を引き継ぐが、アラブ・ゲリラが石油タンカーを攻撃して日本はエネルギーが絶たれて窮地に陥る。アメリカの外資が万吉の企業経営の譲渡と引き換えに石油を用意すると申し出るが、万吉は拒否する。日本の世論の非難を浴びながら独自にアラブから石油を買い付けて日本に運ぼうとする。やがてすべてはアメリカ外資の陰謀だったことがわかり難局を切り抜ける。その後の展開は、さらに苦渋に満ちている。外国に遊学している間に、会社と子分たちが、北海道独立の理想をかかげる若者にのっとられていた。理想の社会、北海道コミューンをつくる若者に万吉ははじめて自分より強い大志を持った人間の存在を知って、敗北を感じるが、男の意地から若者に敵対する。結果的に、若者は政府の革新官僚にあやつられていたにすぎないことがわかって、コミューンは崩壊してしまう。政治に舞台を移した後半が、アメリカ資本との敵対関係と満州国殖民地化を思わせる北海道独立であったことは、日本人の無意識のなかに第二次世界大戦の蹉跌が埋め込まれていることを物語っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本宮ひろ志は１９７４年から１９７６年に「大ぼら一代」で日本の政治と権力をテーマにしている。日本にファシズム的権力が大衆の圧倒的支持を受けて誕生する。かつて全国の番長を統合することに成功した彼は、平和にだらけきった日本社会を改革すべく、選挙で合法的に日本を支配する。経済的に繁栄した日本社会を外国に売り渡して、根本的に改革するファシストの登場に日本社会は壊滅的な状態に陥り、警察権力による大量粛清の嵐が吹き荒れる。ゲリラ的に対向する主人公たちは、かろうじてファシストの暗殺に成功するが、国土は荒れ果て戦争直後の焼け野原のようになっていた。このマンガがたぶんあまり話題にならなかったと思いますが、中学生の僕にはリアリティがありました。１９７３年に小松左京が「日本沈没」で話題をさらったのは、平和と繁栄を謳歌する日本社会に対する無意識的な破壊願望があったのではないでしょうか。オイル・ショックやドル・ショック、アメリカのベトナム敗戦の影響、ローマクラブによる石油枯渇の予想というぐあいに、日本の平和と繁栄は長く続くはずがないことを、サブカルチャーの世界は敏感に受け止めていたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７７年から始まる「俺の空」の主人公は巨大コンツェルンの御曹司で、通過儀礼としての女性遍歴の旅に出る物語です。もはや日本経済の達成は疑いがなく、人間的な成長が女性体験を重ねることで成し遂げられるまでに変貌しています。巨額な資金を動かせる立場で、正義の為に無頓着にお金を使う行為を通して、消費社会での蕩尽を繰り返し、しかし、主人公にお金に対する執着はなく、権力も望まない。巨大な権力と資金を利用できる立場にありながら、無私の精神が美徳とされるところに、かろうじて消費社会のヒーローを描くことができたのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-18T10:02:17+09:00</dc:date>
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<title>本格探偵小説</title>
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<description>１９７６年前後、中学生の僕にとって外国文学といえば、ハヤカワ文庫のミステリでした...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７６年前後、中学生の僕にとって外国文学といえば、ハヤカワ文庫のミステリでした。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ヴァン・ダイン、クロフツを集中して読みました。これらの本格探偵小説は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、１９２０年代から１９３０年代にかけて書かれたものです。知的遊戯、ゲーム、パズルのような興奮を味わえる探偵小説は、世界的な危機の時代にうまれた産物だったのです。ひとことでいううと、純粋に形式化した犯罪小説だといえますが、犯人あてを最大の醍醐味にしています。この時代は、科学の分野ではアインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグの不確定性原理が、数学の分野ではゲーデルの不完全性理論が、哲学ではヴィトゲンシュタインの論理哲学論考やフッサルの超越論的現象学が、文学ではフォルマリズムが登場して、世界を数学的に理論化するのと同時にその不可能性までがみえてきた時代です。政治の世界では代表するものと代表されるものが一致しない民主主義の危機がファシズムとして台頭する時代です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;以下の文章にはネタばらしがあるので注意してください。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この時代に本格探偵小説が大衆の娯楽として受け入れられたのは、自然主義的な、教養主義的な人間観を絶対的な世界戦争が破壊したからで、従来のリアリズムの見直しが文学の世界でも起こったのです。アガサ・クリスティの「アクロイド殺人事件」は語り手が実は犯人であるという問題作で、リアリズムではアンフェアーな試みですが、表現するものと表現されるものの亀裂が語り手が犯人であるということを可能にしたのです。「オリエント急行殺人事件」は列車に乗り合わせた全員が犯人であったという、これまた恐ろしい結論ですが、アメリカの富豪の子息が殺された復讐に、その富豪を慕う人々が参加するという共同謀議を探偵のポワロが見逃すというハートウオミングに見せかけたゲーム化した殺人事件になっています。また、エラリー・クイーンの「Ｙの悲劇」に、大人が書いた犯罪計画を子供が読んで実行するというものがありますが、動機が犯罪の計画書を読んだからというリアリズムでは考えにくいことがなされています。幻想小説や怪奇小説では悪魔や怪物がでるのはあらかじめ了解ずみなのに、探偵小説ではリアリズムのかまえをみせているがゆえに、ラストの犯人像に襲撃をうけるのです。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-17T17:19:43+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_8265.html">
<title>オカルトの帝国　１９７０年代の日本を読む</title>
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<description>図書館で一柳廣孝が編集した「オカルトの帝国」を借りて読む。たまたま、僕のブログで...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;図書館で一柳廣孝が編集した「オカルトの帝国」を借りて読む。たまたま、僕のブログで１９７０年代を回想していたら、現代につながるオカルトブームが１９７０年代に始まっていたことを再確認することになった。僕はその原因が左翼思想の衰退にあると考えます。当初のオカルトは反権力的なサブカルチャーとして始まりましたが、いまや「民主主義の帝国」ともいえるアメリカ合衆国のブッシュ大統領がイラクを「悪の帝国」というオカルトまがいの論法で「テロとの戦争」を推進するリアル・ポリティクスを踏み外す事態にまでなった。その起源に１９７０年代のオカルトブームがあるわけです。宗教書や精神世界の出版物がベストセラーになるのも、政治からの逃避行動だった。かつて１９７０年代に左翼思想が根本的に批判されたように、オカルト・宗教・精神世界が批判されなければならない。そうした批判をとおしてしか、未来につながる左翼思想も宗教も発見できないのだから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>日記・コラム・つぶやき</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-16T18:09:48+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_1203.html">
<title>半村良の１９７０年代</title>
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<description>筒井康隆と五木寛之と半村良が、中学生の僕がもっとも好きな日本の作家でした。１９７...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;筒井康隆と五木寛之と半村良が、中学生の僕がもっとも好きな日本の作家でした。１９７０年代に活躍した彼らは、全共闘運動以後の世界を、筒井は笑いに、五木はセンチメントに、半村はメランコリーに求めます。半村良の伝奇ロマンは、日本の権力の裏社会を舞台にします。１９７１年の「石の血脈」は建築と権力の結びつきをフリーメーソンから吸血鬼伝説までを結びつけます。不死の命を得る病原体はセックスを通して感染する。大量の人血を飲む必要があり、吸血鬼伝説が生れる。特権階級に食入ろうとする若手建築家を描いています。このころから、政治を裏の権力と結びつけたり、ユダヤ資本やアメリカの陰謀がまことしやかに語られ、歴史の裏で暗躍する魔術が、サブカルチャーやオカルト本として出版されていきます。「石の血脈」もそういう流れの中にある作品ですが、この小説がユニークなのは永遠の生命をもつ計画が終盤であっけなく頓挫してしまうところです。ここで半村は反権力としてオカルトを使っているわけです。左翼運動の挫折がオカルトとサブカルチャーのなかに入り込んだわけです。革命の展望がなくなった１９７０年代にオカルト的な思考が登場する必然があったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７２年「産霊山秘録」では日本の歴史の読み換えを試みます。古代から天皇家を裏からささえるヒ一族が暗躍する伝奇ロマンです。明智光秀がヒ一族で織田信長が天皇家を滅ぼして日本の王になるのを防ぐために本能寺の変が起こったとか、坂本竜馬がヒ一族で日本を開国に導いたとか、天皇家がなぜ古代から現代に至るまで永続しているかという謎を偽史を通して解明しようとしている。アメリカが日本に存在する霊的エネルギーを奪おうとして果たせなかったとか、今振り返ると、荒唐無稽な物語には、現状を変えることができないエネルギーが歴史の書き換え、読み直しを通してありえたかもしれない別の日本の姿を想像していたのだといえます。半村良はこうした手法を用いて、天皇制とそれを利用する権力構造を批判しているのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-15T21:52:42+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_5d32_1.html">
<title>五木寛之はどこへ行く</title>
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<description>中学・高校時代１９７５年から１９８０年くらいまで、五木寛之の文庫本はかかさず買い...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;中学・高校時代１９７５年から１９８０年くらいまで、五木寛之の文庫本はかかさず買いました。朝鮮半島に移住した子供時代の体験は、加害者と被害者の両面があり、特に引き揚げ時の体験が壮絶で、絶望からの出発が五木文学の原点といえます。デラシネとは根無し草ではなく、根こぎであるというとき、強制的に移住をしいられた人々の側につくことの宣言なのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９６７年作の「蒼ざめた馬を見よ」は、共産主義国のソ連であろうが、自由主義国のアメリカであろうが、国家の本質にかわりがないという醒めた認識をエンターテイメント化した作品です。そうした認識が戦争体験からきているのは明らかで、国家に利用され、見捨てられたことがイデオロギーに捉われない態度が身についているのである。しかし、僕たちが日本人であることは、生きている条件のようなもので、それを逃れることはできない以上、五木は単純な反国家主義者ではなく、ナショナリストである同時にインターナショナリストでもありうる道を模索します。しかも知識人としてではなく、民衆に手がとどくようなエンタテイメントとして表現しています。中学生の僕は五木寛之から、政治、国家、戦争、芸能、差別、歴史・・・すべてを学んだのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１９７４年作の「戒厳令の夜」を文庫本になった高校時代に読んで衝撃を受けました。１９３０年代のスペイン内戦と１９７３年のチリの軍事クーデターをつなぐ物語は、ファシズムに抗する人民戦線はいかにして可能かという問いがあり、１９４０年代に総力戦体制を完成した日本が戦後も官僚機構だけは解体されずに生き残った結果、「今後、世界はまちがいなく＜戒厳令の時代＞に属するようになるだろう」という予感とともに書かれている。そしてナショナリズムに抗する人民戦線の可能性を五木は、天皇族に征服された縄文人の末裔である海人に求める。それは、スペインに征服された先住民のインディオなどとの連帯を夢見る偽史的なロマンティシズムなのである。新幹線と高速道路が日本の国土をずたずたに引き裂いていたこの時代が、幻の一族にリアリティを与えていたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかし、オウム真理教がそうだったように、偽史的な想像力が最悪なかたちで利用されたことからもわかるように、倫理のない想像力の使用は危険な試みでもある。インディオやジプシーなどインターナショナルな視点がなければ、誇大妄想的な世界に陥るしかない。五木が１９８０年代以降に宗教の世界の探索に向かい、さらにスピリチュアルな世界に踏み込んでいるのをみるとき、ミイラとりがミイラになる危険を見極めながら、民衆のなかにおりていく宗教家の姿と重なるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-14T13:07:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_7636.html">
<title>横溝正史ブーム</title>
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<description>１９７５年頃から何年間か横溝正史の小説や映画が中高生のあいだでブームになります。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７５年頃から何年間か横溝正史の小説や映画が中高生のあいだでブームになります。戦争直後の地方の村社会を舞台に、旧家や血縁のドラマがおどろおどろしく語られる。僕は高木彬光の理知的な推理小説が好きだったので、なぜ横溝が流行るのか、よくわからなかった。映画の出来もすばらしいとは、とてもいえないものである。しかし、同時に見たくないが見たいという感覚があったことは確かである。世の中から貧困が見えにくくなり、国民の９０％が中流意識をもったいた時代である。世界から闇が消え、差別に敏感になり、清潔志向が強くなり、地方の村がディスカバー・ジャパンの旅行対象となり、死が子供には見えなくなっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;横溝正史の小説と映画は、復員兵でも旧家のどろどろした人間関係も閉鎖的な村社会もフレームアップした記号化した世界であったから、見世物感覚で見ることができたのである。金田一耕助は探偵というよりも村の掟をさぐる民俗学者のようでもあり、実際彼は事件の進展を見守るばかりで止めることもできない。彼の仕事は過去の因縁を調べることに費やされる。過去の出来事が現在の事件の深層にあるという基本的な構図は、戦争や戦後をノスタルジックな対象になった１９７０年代後半の心象風景にふさわしかったのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-12T21:02:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_eee5.html">
<title>毛沢東の死と宗教原理主義</title>
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<description>１９７６年に毛沢東の死亡と四人組の逮捕のニュースが流れます。田中角栄逮捕と同じ年...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７６年に毛沢東の死亡と四人組の逮捕のニュースが流れます。田中角栄逮捕と同じ年でした。中学２年生にしてみれば、よくわからないニュースだったわけですが、後年、毛沢東の文化大革命が毛沢東の権力闘争であり、その死によって四人組の失脚であったわけです。さらに文化大革命が恐ろしい粛清の嵐であったことが明らかになります。毛沢東主義が１９６８年の世界的な学生運動に影響を与えていたことを考えると、もはや左翼思想が新しい社会をつくる可能性はないように見えました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ソ連のスターリン主義の内実が理想の社会と程遠いものであることがわかり、毛沢東の「矛盾論」がさまざまな矛盾を肯定しながら実践的にそのつどの運動を肯定する思想として第三世界に革命のモデルを提供していましたが、、第三世界では左翼思想にかわって宗教原理主義が台頭しはじめます。世界にさまざまな矛盾がある以上、それを解決する手段が左翼思想であれ右翼思想であれ宗教思想であれ、求められるほかないからである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;アメリカではトロツキスト（左翼思想）が転向してネオコン（新保守主義）が生まれ、ヒーピームブメントへの反省からキリスト教原理主義が勢力を伸ばします。日本ではオウム真理教（仏教原理主義）に魅かれる若者があらわれ、イスラム圏ではイスラム原理主義が社会変革の希望の原理として生れる。今から振り返ると、１９７０年代に左翼思想に希望が見出せなくなったことが、その後の世界の変動と危機をもたらしていたことがわかります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-11T23:52:48+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://rc1978highschool.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_0174.html">
<title>カムイ伝</title>
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<description>中学校の図書館に白土三平の「カムイ伝」が置いてあって、これを全巻読みきったときは...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;中学校の図書館に白土三平の「カムイ伝」が置いてあって、これを全巻読みきったときは、本当に大きな物語を読んだ充実感でいっぱいになりました。１９６４年から１９７１年まで「ガロ」で連載されたものです。１９６８年の全共闘運動時にはマルクス主義を理解するにはもっとも役立つマンガとしてもてはやされたのに、連載終了時には学生運動は沈滞して、「カムイ伝」も読まれなくなっていたといいます。それから５年後に中学生の僕は熱中したわけです。１９６０年の安保闘争を境にして労働運動は衰退していきます。高度成長は農村共同体を破壊していきます。そういう時代に「カムイ伝」は書きつがれていきます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「カムイ伝」は江戸時代を舞台にしていますが、それは近代国家の前の封建制の時代にこそ、近代国家が隠蔽した暴力や差別の問題があからさまであるからです。江戸時代の幕藩体制は近代国家とはちがって分権的ですが、領主は年貢（国税）を「生かさぬよう殺さぬよう」収奪して、同時に農村共同体を保護する関係にあります。「カムイ伝」ではこの領主や幕府という国家のレベルと、貨幣経済が浸透する都市の商人のレベルと相互扶助的な農村共同体のレベルが錯綜しながら展開していきます。封建制は身分を固定化して差別を永続的なものにしていますが、国家が再分配を通して保護する役割をはたすことで封建システムが機能しています。都市部での商人資本の発達は、安く買って高く売るという資本の運動をもたらし、資本の蓄積をとおして封建社会を内部から解体していきます。相互扶助をもとにする農村共同体は、同時に村八分をする社会でもあり、「カムイ伝」では農村コミューンの実現と挫折として描かれます。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「カムイ伝」は国家や資本の暴力が描かれていますが、それが過去の物語ではなく、いまの時代も同じなのだという認識があるはずです。１９７０年代にはわからなかったが、戦争と不況を経験した１９９０年代には暴力の本質にかわりがないことに思い至るようになります。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>アニメ・コミック</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-10T23:56:31+09:00</dc:date>
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<title>スピルバーグ映画の１９７０年代</title>
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<description>１９７５年映画館で見た「ジョーズ」が中学１年の時で、１９７８年公開された「未知と...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;１９７５年映画館で見た「ジョーズ」が中学１年の時で、１９７８年公開された「未知との遭遇」が高校１年の時です。１９７１年製作の「激突」と１９７４年の「続・激突カージャック」はテレビ放映された時にみています。１９７９年の「１９４１」はまったく面白くなかった記憶があります。１９７０年代のアメリカはベトナム敗戦やドル・ショックやオイル・ショックの影響でシニシズムが広がります。日本から見たアメリカも、１９７０年くらいまでは絶対的な存在であったものが、そうではなくなる。と同時にカルチャーとしてのアメリカニズムが日本社会の中に深く広く受け入れていくようになります。政治的にも経済的にも圧倒的に従属的な関係から、映画や音楽や小説を通して身近な存在になっていたのです。なかでもスピルバーグ映画はもっとも親しめる共感しやすい映画だったのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「激突」はさえない中年男性がタンクローリーを追い越したことがきっかけで、逆に付け回される恐怖を描いています。見えない他者が引き起こす恐怖は、ベトナム戦争の影響でしょか、追うものと追われるものの構図は以後もスピルバーグ映画のもっとも基本的な構図になります。しかも追われるものはヒーローではなく、かろうじて逃げ切れるだけなのです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「続・激突カージャック」は１９６０年代のニューシネマっぽい展開ですが、違いは主人公がすこしもかっこよく描かれないところです。１９６９年の実話をモチーフに成り行きで警察に追われる若い男女は里子に出された子供を取り返すために、逃避行をするシニカルな映画です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「ジョーズ」は海水浴客のシーズンに鮫の出現を明らかにしたくない市長と安全を重視する警察署長の対立が描かれていますが、市長の意見に従わざるをえません。サメを退治するヒーローであるべき海洋学者はあっさり殺され、警察署長はサメを退治することに成功しますが、サメが出現する前の日常に帰っていくだけです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「未知との遭遇」は宇宙人との接近遭遇という国家プロジェクトを、さえない中年男性の目線で描く、非国家的な映画です。最後に宇宙船に招待されなければ、完全に妄想にとりつかれた哀れな人間にしかみえません。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「１９４１」はたぶんスピルバーグ作品のなかでもっとも評判が悪く、実際に笑えないギャグ映画です。第二次世界大戦をパロディにした非常にシニカルな笑いが、大仕掛けの映像で展開します。物語と映像がまったく乖離した非アメリカ的な映画です。&lt;/p&gt;

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<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>たくや</dc:creator>
<dc:date>2007-07-08T20:59:43+09:00</dc:date>
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