1935年作の夢野久作「ドグラ・マグラ」を読んだのはたぶん高校受験が終わった1978年の春だったと思う。この小説は1960年代末の全共闘運動の時に、反近代・土着のブームの中で再評価されたものが、1970年代中頃に文庫化されて、中学生の僕にも気楽に買えるようになったのでしょう。一読後、スケールの大きさ、実験精神に驚嘆してしまいました。1930年代という時代は、マルクス主義者は逮捕・転向を余儀なくされ、満州事変でアジア主義が現実のものとなり、軍部が独走する帝国主義がきわまり、近代主義・自由主義者は息をひそめるというような時代です。
「ドグラ・マグラ」の世界は一言でいうと独我論的な世界だと思います。精神病院を舞台にして記憶喪失になった<わたし>が、医師と患者の非対称的な関係のなかで、自分が何者なのか、なにが真実でなにが虚偽なのかわからない世界に閉じ込められている。あやしげな学術論文やパンフレット、インタビュー記事、遺言書などによって現実に起こったことのの手がかりになっているが、その資料自体が偽造されたものでないとの保証はない。この世界では絶対的な真理はそのまま絶対的な虚偽に転化するメビウスの輪で構成されているので、<わたし>は<現実>を喪失していくほかないのです。これは1930年代の日本の現実の状況そのままではないでしょうか。この時期を代表する哲学者の西田幾多郎は絶対無を基底にした絶対矛盾的自己同一性の世界を打ちたてましたが、ばらばらの個人がたがいに矛盾を維持しながら、全体を包摂する場所の論理はドグラ・マグラの世界と似通っています。
同時期にアインシュタインの相対性理論は日本でもブームになりましたが、それは我々がよく知っていると思っている現実が、本当の現実ではないという衝撃があったからでしょう。実感では天動説なのに、現実は地動説であるということを知ったときの驚きは、我々の認識では、現実そのものを捉えられない。18世紀のコペルニクス的転回が改めて、1930年代に問われたのです。そこから、「世界はすべて私の幻想ではないか」という独我論に陥るのである。1970年代の日本は1930年代の日本にくらべて、帝国主義もアジアア主義もなく、戦争も革命もない、密室化した近代主義だけが広がる時代に、「ドグラ・マグラ」は不可知論的なニヒリズムをもたらしたのです。