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2007年7月14日 (土)

五木寛之はどこへ行く

中学・高校時代1975年から1980年くらいまで、五木寛之の文庫本はかかさず買いました。朝鮮半島に移住した子供時代の体験は、加害者と被害者の両面があり、特に引き揚げ時の体験が壮絶で、絶望からの出発が五木文学の原点といえます。デラシネとは根無し草ではなく、根こぎであるというとき、強制的に移住をしいられた人々の側につくことの宣言なのである。

1967年作の「蒼ざめた馬を見よ」は、共産主義国のソ連であろうが、自由主義国のアメリカであろうが、国家の本質にかわりがないという醒めた認識をエンターテイメント化した作品です。そうした認識が戦争体験からきているのは明らかで、国家に利用され、見捨てられたことがイデオロギーに捉われない態度が身についているのである。しかし、僕たちが日本人であることは、生きている条件のようなもので、それを逃れることはできない以上、五木は単純な反国家主義者ではなく、ナショナリストである同時にインターナショナリストでもありうる道を模索します。しかも知識人としてではなく、民衆に手がとどくようなエンタテイメントとして表現しています。中学生の僕は五木寛之から、政治、国家、戦争、芸能、差別、歴史・・・すべてを学んだのである。

1974年作の「戒厳令の夜」を文庫本になった高校時代に読んで衝撃を受けました。1930年代のスペイン内戦と1973年のチリの軍事クーデターをつなぐ物語は、ファシズムに抗する人民戦線はいかにして可能かという問いがあり、1940年代に総力戦体制を完成した日本が戦後も官僚機構だけは解体されずに生き残った結果、「今後、世界はまちがいなく<戒厳令の時代>に属するようになるだろう」という予感とともに書かれている。そしてナショナリズムに抗する人民戦線の可能性を五木は、天皇族に征服された縄文人の末裔である海人に求める。それは、スペインに征服された先住民のインディオなどとの連帯を夢見る偽史的なロマンティシズムなのである。新幹線と高速道路が日本の国土をずたずたに引き裂いていたこの時代が、幻の一族にリアリティを与えていたのである。

しかし、オウム真理教がそうだったように、偽史的な想像力が最悪なかたちで利用されたことからもわかるように、倫理のない想像力の使用は危険な試みでもある。インディオやジプシーなどインターナショナルな視点がなければ、誇大妄想的な世界に陥るしかない。五木が1980年代以降に宗教の世界の探索に向かい、さらにスピリチュアルな世界に踏み込んでいるのをみるとき、ミイラとりがミイラになる危険を見極めながら、民衆のなかにおりていく宗教家の姿と重なるのである。

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